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平間 重助 生年 文政七年(1824年) 芹沢村(現茨城県行方市芹沢)にて生まれる |
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画像は現在の芹澤鴨生家跡 ※芹澤家子孫の方の持家です。許可無く立ち入ることはできません。 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼平間重助 その生涯 ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ |
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平間重助は文政7年(1824)、現在の行方市芹沢473番地に生まれました。菩提寺である法眼寺の過去帖によると、
父は忠衛門といい、江戸中期のころ、平間市郎右衛門(芹沢家の用人格) の家系より分家し、代々忠衛門を継ぐ家系 です。 平間家の遠祖は神奈川県川崎の平間寺に由来し、鎌倉のころ、芹沢鴨の祖先である、芹沢小龍丸を守るため、祖先 である平間蔵人が就いてきたのが起源といわれ、約四百年の歴史を持ちます。以後、平間家は代々芹沢家の家老格と して、特に豪族時代には常に芹沢家の留守居役を勤め、芹沢家に重宝されました。 重助がいつ家督を継いだかは定かではありませんが、天保15年(のちに弘化元年・1844)、重助21歳の時、水戸藩の 軍事調練に芹沢外記(貞幹)率いる、芹沢一族のひとりとして参加しております。 その後妻を迎え、嘉永元年(1848)、長男の忠衛門も生まれ、重助は芹沢家の用人として、平穏な生活をしていました。 そこに万延元年(1860) 、幕府大老、井伊直弼が襲われた「桜田門外の変」が起こります。幕府に不満を持っていた 水戸浪士は、これを契機に、高まった攘夷機運に乗じて約50名が集まり、横浜の異人襲撃準備のため、現在の行方市の 玉造郷校に屯集します。これを「玉造党」と呼び、いわゆる天狗党の前身ができます。玉造党では、挙兵や軍資金の確 保のため、近在の豪農、豪商から資金調達をしていました。その玉造党のひとりに下村継次がいました。のちの「芹沢 鴨」です。 重助とは単に幼馴染としてではなく、芹沢家と平間家の関係〜室町以来の主家と家臣の関係から、自然と懇意になり ました。そのとき重助は、下村から剣術として神道無念流を学びます。翌年3月、下村が水戸藩に捕われるまでには、 重助の剣の腕は上達し、下村から目録を受けました。 文久3年(1863)、昨年の暮れ、大赦により釈放された下村継次は、名を「芹沢鴨」と改め、庄内郷士、清河八郎が将 軍警護のために創設した浪士組に参加を決めました。芹沢家では、鴨の身を案じ、当時用人であった重助に彼の目付役 として同行することを頼み、重助は鴨とともに浪士組に参加することとなりました。 二月下旬、芹沢とともに浪士組として上洛すると、休む間もなく、清河八郎は幕府に対しクーデターを起こします。 芹沢は浪士組を私物化せんと企んだことを「潔しとせず」と、近藤勇たちとともに京都に残留することを決意します。 そして3月10日、幕府のすすめにより、正式に会津藩御預りが決まり、「壬生浪士組」を拝命すると、筆頭局長となっ た芹沢は各隊士の職制を決め、重助は副長助勤、勘定役を拝命します。 重助はさっそく芹沢家の用人としての才腕を発揮します。隊服の費用調達のため、芹沢とともに大坂の鴻池に同行し たのも、芹沢が彼の才能を期待したものと思われます。 しかし、芹沢鴨とともに過ごした新選組の生活にも終焉を告げます。〜9月16日の深夜、突然、何者かによって芹沢 鴨が暗殺されます。このとき、重助は同士討ちとはまったく知りませんでした。運良く厠にいた重助は奇禍から免がれ、 隊に無断で脱走し、郷里芹沢に戻りました。「新選組」ではなく、「芹沢家のメッセンジャー」を優先した重助の行動 でした。 そして着の身着のままの様相で京都から帰郷した重助は芹沢家に芹沢鴨の経緯を伝えました。ただ、このとき重助は ほどなくしてどこかへと消えていきます。当時の芹沢は、近在の小川郷校の藤田小四郎率いる「天狗党」数百名がいつ 蜂起するかもという、微妙な状況で、また、重助は新選組を脱走したままなので、いつ幕府側に嫌疑を受けても不思議 ではなかったのです。 そして明治維新を迎え、重助はようやく芹沢に戻ってきました。晩年は官軍の目を忍び、近所の家の離れを借りて隠 れ住みつつも、明治3年、(1870)、孫忠太郎も生まれ、そろそろささやかな幸せが訪れようとしていた明治7年(1874) 旧暦8月22日(新暦で10月3日)、重助は息を引き取りました。享年51歳。法名は孤月冷淋居士。重助の境遇を物語って いるようですが、それでも重助の芹沢鴨直伝の剣術は同じ平間一族の子之吉に受け継がれたそうです。 |
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文 : あさくら ゆう 氏 |
| ●参考文献● 芹澤雄二「芹澤家の歴史」 川瀬教文「玉造勢進退始末」 永倉新八「浪士文久報国記事」 永倉新八書簡 子母沢寛「新選組始末記」 小川町「小川町史上巻」 ◎記事作成:あさくら ゆう 氏 |