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| 芹澤 鴨(光幹) 生年 天保元年(1830年) 芹沢村(現茨城県行方市芹沢)にて生まれる |
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| 画像は現在の芹澤鴨生家跡 ※芹澤家子孫の方の持家です。許可無く立ち入ることはできません。 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼幼少時代 ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ |
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芹沢家は、至徳3年(1385年)、芹沢良忠が、当時この地域を治めていた大豫(だいじょう)馬場氏の要請に応え、
神奈川県鎌倉あたりから現在の芹沢に移りました。そして豪族として、一時は「芹沢城」を築くほどの家柄で した。 関ヶ原の戦では戦功あって、徳川家康に認められ、幕臣となります。しかし、故あって寛永14年(1637年)、時の 当主、利幹が切腹する始末におよび、しばらくは浪人生活を送りますが、享保18年(1733年)、水戸藩郷士として 許され、明和2年(1765年)、には郷士上席として扱われ、士分格を賜る家系となります。 (このとき、分家の又衛門は、当時の藩主光圀公より禄をいただき、この子孫2名が芹沢鴨の葬儀に参列しま す) |
そして芹沢鴨は文政9年(1826年・推定)、芹沢外記貞幹の三男「玄太」として生まれました。
父外記貞幹は、勤皇の志が厚く、当時の水戸藩主、徳川斉昭公が天保5年(1834年)に領内を巡見した際、この
芹沢家に立ち寄られ、外記貞幹のその深い教養に肝銘を受け、自らの扇・鞭・金子・菓子等を与えられました
−現在、邸内に碑文(右写真)があります− 。外記貞幹は、斉昭に忠誠を誓い、天保15年(1844年)、水戸藩の洋式調練に、
彼が豪族時代に従えた家臣団とともに参加します。その功を労われ、斉昭公は自らの烏帽子を渡され、酒を酌
まれたと伝わります。そのエリートの血筋として生まれた玄太も、自然と斉昭公の尊王攘夷思想に触発され、
幼少の項、すでに剣術や学問の基本を修めていたものと思われます。 |
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文:あさくら ゆう 氏 |
| ■芹澤鴨の家族▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ |
| 父 ◎貞幹(多志見・外記)、幼名「虎寿」天明5年(1785年)〜元治元年(1864年) 80歳 ・俳諧をたしなみ、鳥銃の術に優れていた。 ・天保5年3月17日、藩主徳川斉昭立ち寄る。 ・弘化元年(天保15年)千波原での『追鳥狩』に家臣36名を率いて参加。 (家臣の中に平間重助の名がある) |
| 母 ◎名不詳 ?〜弘化3年(1832年) |
| 兄 ◎興幹(小忠太)文化8年(1811年)〜天保13年(1842年) 32歳 子供なし ◎成幹(多志見・兵部)文化11年(1814年)〜慶応2年(1866年) 56歳 医薬に長ず 水戸で牢死 |
| 姉 ◎名不詳 室町氏へ嫁す ●玄太(鴨)天保元年(1830年)〜文久3年(1863年) ・延方郷校に学ぶ 15歳 1849年 文化4年(1807年)開館の医学館で医学と尊皇攘夷の思想を学ぶ。 ・神道無念流を戸ヶ崎熊太郎に学び、免許皆伝の腕前。 芹澤鴨は本名を「下村継次」と名乗っていたということ。 |
| 妻 ◎名不詳 ?〜慶応4年(1868年) 9月12日 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼下村継次として▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ |
芹沢鴨はその後、元服すると、今の北茨城市の神官、下村祐斉義次の娘と結婚し、名を「下村継次」と
改めました。
下村家の由来は古く、かの九州のキリシタン大名として有名な大友家の家系でした。そして、大友家没
落後は小倉小笠原藩に仕官し、天草の乱で戦功を立て、その恩賞として彼の地に移り住みました。その
後、地元の十石堀建設に功労があって、代々藩目付役をしてたといわれます。〜余談ですが、祖先下村
平六郎は宮本武蔵から二刀剣術の教えを受けていたようです〜その養父である義次は勤皇の志も厚く、
弟橘媛(おとたちばな)神社の神官を引継ぎました。弟橘媛神社は、水戸徳川家に縁の深い神社で、通称「天妃山」と呼ばれております。由来は徳川光圀公 (一般的には水戸黄門として知られる)が本来祀ってあった薬師如来を移し、代わりに天妃神を祀ったの が始まりで、後に斉昭公も当地を訪れ、妃弟、弟橘媛命を合祀しています。 この弟橘媛神社と近在の烝殿(じょうどの)神社の神官を義次から受継ぎ、継次は神官時代に尊皇攘夷の 精神を学び、剣も当時、水戸の剣術師範であった戸ケ崎熊太郎から師範免許を受けるという天才振りを 発揮しました。 その継次の交友と知識を深めた影には、近在に住む親友、野口哲太郎正安がおりました。彼は剣を当時 勤皇家で知られる金子健四郎(のちの新選組参謀、伊東甲子太郎の最初の剣の師匠でもある)から学び、 その縁で藤田東湖を知り、嘉永5年正月には長州の吉田松陰もわざわざ彼を訪ねに来たほどの英傑でし た。 (この野口家は水戸領内の入口として、陣屋を構える野口家の分家で、本家からは長州の桂小五郎と親 交のあった西丸帯刀や、後の衆議院議員の野口勝一。歌人の野口雨情を輩出した名家です) |
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文:あさくら ゆう 氏 |
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■下村継次(嗣次)の名が出てくる資料▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ |
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○茨城県史料 幕末編V 「下村継次」 |
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■神官としての下村継次▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ |
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○松井村神官、下村家養子となる。 |
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■下村家<三代神官>について▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ |
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○管理した神社 |
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■芹沢家と下村家・芹沢鴨と下村継次を結びつける資料※不明な点が多い▲ |
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○天狗組の下村・新選組の芹澤は鉄扇をもっていたという事。 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天狗党での活躍期!▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ |
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安政5年(1859年)、幕府の大老、井伊直弼が尊王攘夷の志士を弾圧した「安政の大獄」が行われました。
その行為を憂いた朝廷は、水戸なら何とかしてくれようと、翌年、水戸藩に勅書を送りました。これを 「勅書降下事件」と呼んでいます。 この朝廷の行為が幕府に漏れ、幕府は水戸藩にその勅書を返還せよと迫ります。それを承伏できぬと、 藩の下級武士、郷士、神官等、約300名が水戸の手前、長岡に屯集し、返還阻止行動をおこしました。継 次の直接参加の記録はありませんが、近在の野口正安がその事件に関与しており、継次も家族に何も言わ ずに突然出て行ってしまった時期がこの頃とされております。この参加した同志の中には、のちの壬生浪 士組の初期メンバーである粕谷新五郎や、のちに近藤勇を千葉県流山で捕らえた香川敬三こと鯉沼伊織が おりました。 年が明けて安政7年(のちに改元して万延元年・1860年)、その騒動も3月に井伊直弼が水戸藩の高橋多一 郎等に暗殺され、本懐を遂げたとして、彼らは水戸領内各所に散らばっておりました。しかし、その年の 夏、盟主と崇めていた斉昭公の急死を契機に、攘夷実行の方法論で彼らは二派に別れました。その結果、 吉成恒二郎、粕谷新五郎等、37名は攘夷の実行を促すため、薩摩藩邸に駆け込み、大津彦五郎、野口正安 の派閥「玉造勢」は横浜で攘夷を実行するため、玉造郷校(現行方市)に集まり、挙兵の資金を集めること となりました(この頃から彼らを「天狗」と呼んでいた)。 玉造勢は「無二無三日本魂」、「進思尽忠」という旗や幟(のぼり)を立て、仲間とともに潮来、佐原辺 の豪商を巡り、金策を行ない、佐原の記録に文久元年(1861年)、1月に奉行所に提出した記録が残ってお ります。 その中に下村継次もメンバーとして入っており、香取神宮の太鼓を破ったと伝えられ、また、佐原の豪 商の態度に立腹して鉄扇で暴れたとする記録が残されています。 その活動の成果が1月28日、玉造郷校内での玉造組結党式に発展し、継次は署名血判し、幹部となりま した。翌日、その祝いとして潮来で豪遊し、翌2月1日、庄内郷士清川八郎(のちの浪士組創立者)がわざ わざ潮来に来て面会を試みましたが、遂に会えずに終わったという記録があります。その面会を袖に振っ たのが妓楼松本屋にいた者といわれ、継次ごひいきのお店というのは偶然ですが面白い話です。 ただ、問題もありました。このころになると素行の悪い者も増え、偽者も横行し、勝手に金策する者も 出てまいりました。その暴虐行為が幕府の耳にも逐一入り、継次もそのため、部下三人を斬ったと伝えら れます。 この間、水戸藩の政権は親天狗派から諸生派に変り、2月、一連の騒動を収拾すべく、玉造党の弾圧を 開始します。まず藩に自首し、部下の助命嘆願を行っていた大津彦五郎、野口正安等を水戸細谷獄へ入牢 させ、玉造党に捕縛命令を出しました。さっそく諸生派は十数人を連れて、幹部である継次を捕縛しよう と芹沢家にやってきました。すると継次は彼らと斬り合いながら逃げ延び、後日戻ってきたという芹沢家 の談話があります。隘路(あいろ)を巧みに使った戦法は、彼の戦術の巧緻を知るエピソードです。 危険を感じた継次は、その際、玉造党に関する一切の書類を焼き捨てますが、3月28日、とうとう芹沢 家に隠れているところを捕方に踏み込まれ、捕縛されました。継次は天領である佐原の一件により、いっ たん江戸の辰の口評定所に送られた後、水戸の細谷獄に送られました。 牢獄の扱いはその人によって別れましたが、最高幹部8名以外はとても士分の扱いにはほど遠いもので した。大津彦五郎等は、自らが罪を背負うとしたにも関わらず、この処分に絶えきれず、食を断って訴え ましたが、遂に倒れ、獄死してしまいました。 野口正安は、その仲間を憂い、獄衣の染料を落とし、仲間が吟じた詩を獄中でしたためた「鶯谷集」を 残しました。 (野口だけは藩の重職にいた西丸帯刀の力により若干優遇されていた)。 その叙を引用すると、 〜私の友、六人の勇士は病に伏せるが医薬は一切なく、牢死した霊を哀しむことしかできない。私はいま だ倒れず、ひとり、暗い窓の下にある〜(要約) 継次もまた彼らと同様であった。水戸浪士が攘夷のため品川東禅寺にあるイギリス公邸を襲った「東禅 寺事件」が起こると、弾圧も厳しくなり、その憤慨を表すため、継次は獄中で噛み切った小指から滴る血 で書いて詠んだ詩を牢外に貼り付けたといいます。 しかし、それから時勢は急転しました。文久2年(1862年)、幕府も弱体化し、代わりに長州、薩摩、土佐 の勤皇党の勢力が朝廷内に強まると、水戸藩内でも再度、人事異動が行われました。藩士住谷寅之助が、 下向中の勅使、大原重徳に現状の水戸藩を憂いた意見書を提出すると、大原は帰京後、水戸藩の為に各所 に周旋してくれました。それにより、朝廷から藩重役の尾崎豊後へ、「藩は烈公の意思を継ぎ、隠居謹慎 者を赦免するように」との内達を受け、それに従い、9月には武田耕雲斉(のちの天狗党幹部)等の謹慎が 解かれ、11月、藩家老に復職し、諸生派を一掃しました。 復職後、武田は早速、安政の大獄以後に捕らわれた浪士の赦免活動に奔走し、それを朝廷に伝えると、 その功によって、12月18日、細谷獄に囚われていた政治犯はすべて釈放されました。継次も先の大赦で「 引廻しの上、斬罪の所、御大赦に付き、牢屋屋敷において斬罪梟首の事」とされておりましたが、辛くも 無事、釈放されたのでした。 |
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文:あさくら ゆう 氏 |
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| ■尊皇派志士としての下村継次▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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◎安政5年(1858年) 戌午の勅諚(攘夷)・・・水戸藩へ ア.安政6年12月末、水戸藩尊攘派150名位が長岡に屯集したが、その中に<下村継次> <野口哲太郎>が参加している。 イ.文久元年1月、上記のうち一派は一旦退いて時期を待つということで小川郷校周辺 に屯集し、「玉造勢」といわれる大きな勢力となった。 ウ.玉造勢は武術に励むと共に、天狗組と称して軍集金調達のために各地で活動した。 文久元年(1861年)の佐原騒動関係者に<下村継次><新家久米太郎>等がいた。 エ.文久元年(1961年)2月、玉造文武館党の54人の中に<下村継次>の名がある。 〔水戸藩史料幕末編V〕 オ.文久元年(1861年)2月、幕府から水戸浪士を招捕れとの指令が出る。3月に捕らわ れた入牢者の中に<下村継次>の名がある。(赤沼牢) カ.文久2年12月、尊攘派浪士は大赦によって釈放された。斬罪といわれていた<下村 継次>も釈放されたようだ。 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼壬生浪士組誕生 ▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ |
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下村継次は養家下村家には帰らず、芹沢家に戻りました。何も告げずに去った下村家には帰れないと悟って
いたのです。 芹沢に戻ると彼は、名を「芹沢鴨光幹」と改め、その際妻をもらいました。身を落ち着けようとする芹沢家 の案だったのですが、彼の心はすでに尊皇攘夷に燃えてました。獄中で聞いた、幕府が有為な浪士を集め、「 浪士組」を結成し、将軍家茂公のお供、警護をさせるという話に彼の心は動いていたのです。 結局、年の明けた文久3年(1863年)、芹沢家に鴨と一緒に行動するよう命令された 平間重助 とともに江戸に向 かいました。 江戸に着き、浪士組本部のある伝通院に赴くと、人望により六番隊(一説に三番隊)隊長に任じられました。 その際、仲間に加わったのが平山五郎、野口健司、2月5日には近藤勇率いる試衛館門人も加わりました。近 藤には芹沢の人物を観る目がありました。 そして8日、浪士組234名は江戸を出立して中仙道経由にて京都に向かいました。 その道中、本庄宿で宿を漏らしたことに立腹した芹沢は、自分の組下の平間や土方歳三に命じて、道中に野 陣を張り、篝火を焚く事件を起こしました。その他にも問題を起こし、ついに17日、隊長を免ぜられ、取締並 手付となりました。その際、芹沢の代わりに近藤勇が隊長とはなるのですが、けっきょく扱いきれず、最後に は西恭助が隊長となりました。 23日、浪士組一党は京都へ着き、早速宿割りが決められました。芹沢鴨は新徳寺、平間や試衛館一党のいる 六番隊は八木源之丞宅にそれぞれ落ち着きました。芹沢は上洛後、北野天満宮に参拝し、ひとつの絵馬を残し ます。それが有名な、 |
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「 雪 |
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しかし、腰をやっと落ち着けたと思いきや、この浪士組の影の創設者、清河八郎(身分上は隊中にいない)が浪 士組幹部に内緒で学習院に浪士組一同として上書を提出しました。その内容の重要な部分を要約すると、 「我々は幕府の御召には応じて参加した者であるが、別に禄位をいただいている訳ではない。我々はただ、尊 攘の大義を貫く者である。万一皇命を妨げ、私意を企てる者は、例え有為の者であっても容赦なく斬り捨てる」 と言った内容でした。朝廷はその上書を受け入れ、29日には学習院から勅宣を賜り、同日、関白からは達文を 浪士組に賜りました。これは、清河が幕府を無視して浪士組を統率できるという意味で、翌日、清河は、関東 において攘夷の先鋒を勤めたき旨の上書を提出し、それにより3月3日、関白より東下の命が浪士組に降りま した。 そのころ、清河の独断行為に立腹した老中、板倉伊賀守から、すでに残留を決めていた芹沢鴨に暗殺指令を 出したといわれます。近藤とともに清河を追いますが、清河と同行している山岡鉄太郎が「御朱印」(幕府の 印が入った書状〜これを斬ることは幕府を斬るという意味につながった)を携行していたため、暗殺は未遂に 終わっています。 横浜攘夷のため、引き返すことに決まった浪士組の出発が3月13日と決まり、その前日、清河八郎は新徳寺 に一同を揃え集まった浪士一同に向かって、 「関白の命によって攘夷の先鋒となる」 と言いました。 芹沢は、 「我等は幕府の召に応じて集まったものだから、将軍家の命令がなければ一歩も退かぬ」 と言い、事実上、ここで完全に清河と決別しました。これに新見錦や柏谷新五郎、近藤勇等、試衛館一党もこ れに加わり、早速、幕府方の取締りである鵜殿鳩翁に、 「このたびの東下の趣旨には納得できず、私ども14人は京都に留まります。将軍の滞在中、攘夷の命令が降り るまでは京都に留まりたいのです」 という趣旨を述べ、また会津藩にも3月10日、 「いま外国が迫り、世情は混乱しています。おそれながら、私たちに天皇、ならびに将軍の警護をさせてくだ さい。将軍下向の後、勅書に基づき、攘夷いたします。将軍の下向のないまま東帰は納得できませんので、な にとぞ下向する間だけでも警護をさせていただきたく、城外夜回り、警護をお許しいただきたい。もし聞き届 けてくれなければ、浪士組を抜けて、一介の浪士としてでも警護したいと存じます」(古文書要約、一部筆者 修正) として、 浪士、芹澤鴨・近藤勇・新見錦・柏谷新五郎・平山五郎・山南敬介・沖田総司・野口健二・土方歳三・原田佐 之介・平間十輔・藤堂平介・井上源三郎・永倉新八・斉藤一・佐伯又三郎・阿比留鋭三郎。以上、17人の署名 を入れた嘆願書を提出いたしました。(隊士名は原文のまま) これを受け、会津藩は鞅掌録(おうしょうろく)に当日、 「10日、幕府より浮浪の徒、尽忠報国の志ある者を我が藩において、差配せよとの命令あり。その願う者24人 を会津藩付属に命ぜられる」(要約、一部筆者修正) とあり、ここに会津藩お預かり「壬生浪士」が誕生しました。 隊名は「壬生浪士組」として、当面の宿所を現在借りている八木源之丞、前川荘司、南部亀二郎宅としました。 このとき、京都を警衛するには人数が足りないと、大阪に出向き、有志を募集し、ほどなく人数も100名ほどに なりました。 この際、芹沢と近藤で役職を決め、局長は芹沢と近藤、芹沢が筆頭となりました。 そして規律〜局中法度を定めます。 士道にそむきまじきこと。 隊を脱することを許さず。 勝手に金策しないこと。 勝手に訴訟を取り扱わないこと。 私の闘争を許さず。 以上、そむく場合は切腹とする。 実はこの局中法度の背景には芹沢の玉造党時代の教訓が生かされておりました。 これでようやく一隊を造ることは出来ましたが、まわりの隊士たちを見てみると、みんな粗末な風体で、どっ ちが不逞浪士だかわからない。近藤でさえも縞の木綿だったのでした。 これはまずいので、制服等を誂える資金を調達しに、芹沢、山南、永倉、原田、井上、平山、野口、平間の7 人を連れて、大阪の鴻池(一説に平野屋の説もある)に赴き、200両を借り受けることに成功しました。そこで作ら れたのが有名な「だんだら羽織」でした。 その姿をさきほどの鞅掌録に詳しく書かれております。 「4月25日、我が会津藩お預かり浪士20人あまり、将軍の下阪中に警護する。浪士、時に一様の外套(がいとう) を制し、長刀地に曳き、あるいは大髪頭を覆い、形貌はなはだしく、列をなして行く。逢う者、みな目を傾て、こ れを恐れる」(一部読み下し) |
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文:あさくら ゆう 氏 |
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▼▼▼▼▼▼▼▼浪士組から新選組へ〜そしてその結末 ▼▼▼▼▼▼▼▼ |
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文久三年は前半と後半では政情が全く替った年でした。この年の3月に水戸、徳川慶篤公が上京し、また慶篤
公をお供する形で尊皇攘夷を志す浪士も共に上京してきました。その滞在先を本圀寺とし、浪士もまた、その本
圀寺に滞在していたことから、彼らを「本圀寺党」と名乗っておりました。芹沢とかつての同志だった者や、分
家の芹沢又衛門と助次郎も上京していました。当時、芹沢と副長の新見はこの本圀寺党とは友好関係にありまし
た。また芹沢又衛門たちも壬生の屯所に訪れることもありました。 芹沢のいるころの新選組は、敬幕ながら尊皇攘夷感が強かったのが特徴で、6月、大原重徳が勅使として小田 原まで下向して、当時の将軍徳川家茂を呼び出し、朝廷の命により将軍職を召し上げようとしていました。その 時の警護に壬生浪士組が任じられたので、将軍に朝敵の汚名を着せまいと、小田原からそのまま横浜まで行って、 横浜鎖港をしてしまおうという計画がありました。結局、事の重大さから、当時将軍後見職であった徳川慶喜が 上京し、事態を収拾したおかげで、大原の勅使自体が差止めとなりましたが、当時の新選組のエピソードとして は面白い出来事です。 それと、今ででこそ新選組は有名ですが、その知名度に貢献したのが芹沢でした。当時、身なりや風体、そし て聞きなれない言葉や風習の違いから壬生浪士組は京都の人から敬遠されておりました。島原の角屋も最初はそ うで、壬生浪士組を気嫌いしておりました。それを知った芹沢はあえて角屋を選び、宴会を催しました。その際、 角屋の従業員はいっさい座敷に出ず、壬生浪士組を格下扱いいたしました。それに立腹した芹沢は角屋で乱暴の 一幕を演じます。さんざん什器等を破壊し、主人に7日間の営業停止を命じました。 抗議しようにも、壬生浪士組の取扱いを奉行所に問われては困るので、角屋はそれに従いました。 大坂での相撲取りともめた一件もそれに起因します。壬生浪士組に対し、傲慢な態度にでた力士に折檻を加え たことに立腹し、力士たちは宿所まで襲ってきたのです。そのとき壬生浪士たち約10名で相手をし、力士たちを こてんぱんにやっつけております。その際、壬生浪士側にも負傷者が出ましたが、芹沢が負傷したという話は伝 わっておりません。 そして芹沢の命運を決めた出来事が発生します。「八、一八の政変」です。その当時、三条実美等、公卿と手 を組み、倒幕を企む長州を追い落とすため、当時、姉小路公知暗殺事件に関与したと、形成不利となった薩摩藩 が会津藩と手を組み、中川宮を擁し、今まで長州や土佐藩過激派と親交のあった七公卿を追放し、一気に佐幕派 が政権を握ったのです。そのため、万一長州藩が抵抗するなら一戦もありやと、京都守護職会津藩、京都所司代 淀藩、薩摩藩の三藩に召集がかかり、会津藩のお預かりの壬生浪士組にも召集がかかりました。芹沢、近藤は小 具足に烏帽子を被り、隊士52名を連れ、蛤御門へさしかかります。すると、警護している会津藩とトラブルとな りました。理由は、警護していた会津藩士がつい2〜3日前に京都に着いたばかりの者が多く、壬生浪士組を知 らない者が多かったのが原因でした。そのときの模様を会津藩士鈴木丹下は「騒擾日記」に書いてます。 「壬生浪士と申す者たち52人、一様の支度をいたし、浅黄麻へ袖口の所ばかり、白く山形を抜いた羽織を着し、 騎馬提灯も上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打抜き、黒く書いたものを掲げている。大将の芹沢鴨、近藤勇と 申す者は小具足烏帽子を冠り、鉄扇を取り、具足櫃に腰かけ、さもいかめしく控えている。彼らに合印である黄 たすきを渡したところ、おおいに喜び、このたすきをかけて存分に働き、真先に討ち死に仕るべくと、勇ましき 者たちである。この者たちはいずれも諸国より集まった者たちで、そのうち、近藤勇という者は知勇兼備わり、 何事の掛合に及んでもとどこおり無く返答いたし、芹沢鴨と申す者はあくまで勇気強く、 凶暴で、配下の者で己が気にいらない時は、死ぬ程打擲(ちょうちゃく)することがある。しかし、いずれ も才力勇気をもって大将とあがめられ、誰も背く者はいない。はじめ(蛤門の)警護を仰せ付けられ、蛤御門より 入ろうとすると、我が藩は見張番所三番組で固めてるので通行は出来ぬと申し、一同、槍の鞘を外し、彼らに詰 め寄るが、なかなか承知せず、芹沢鴨などは顔の先へ突出された抜身の穂先を見て、扇 を腰より取り、煽ぎ立て、悪口雑言申したてる。一触即発の状況のなか、軍事奉行西郷十郎右衛門が駆けつけ、 事なきを得た。芹沢鴨は大事に及ばずと弁えてのことで、彼の扇をもって我身より五寸余り離れた槍の穂先を煽 ぐ姿は大胆とも申すべくや。にくさもにくしと、そこにいる者は語り草となった。(要約、一部筆者修正)」 とある。そしてこの功績が認められ、同月21日、朝廷より市中取締りを命ぜられ、「新選組」という隊名を賜 わりました。 しかし、この事件が芹沢の契機でもありました。朝廷や幕府の政情が佐幕化に強まると、今までの芹沢の交友 関係からは非難の声が上がりました。水戸の本圀寺党も政変により過激派は逃亡し、自然と芹沢とは距離を置く 関係となりました。また、尊王攘夷を謡い、隊内でも過激派と親交のあった新見錦を切腹に追い込んだことも、 昔の同志から白眼視を受ける原因となりました。隊は近藤勇の勢力が上回ってきており、尊皇と攘夷、佐幕と開 国の間で芹沢はジレンマに陥りました。 〜この時点で芹沢のプライドは瓦解しました。その結果が酒であり、酒量はとみに増え、市中では乱暴を振舞い、 商家の妾を屯所に連れ込み、これを奪う。その結果、ついに御所表より召捕りの沙汰が降りるまでに発展するこ とになりました。近藤としてはようやく軌道に乗り始めた新選組を、いくら芹沢が創始者であろうとも潰す訳に はいかない。隊内で処罰する訳にもいかず、近藤は悩みましたが、ついに決断します。 ――9月16日、新選組は島原の角屋を借りきって隊士たちの慰労会を行いました。午後6時頃、いったん散会し て角屋を出て、今度は屯所の八木邸で芹沢、副長助勤の平山五郎、平間、土方の四人で酒宴を催しました。土方 が芸妓を呼んでたかは不明ですが、平間と平山は芸妓を呼び、芹沢はお梅という女を屯所に囲っていました。酒 宴も進み、夜も更けたころ、ついに芹沢、平山は酔いつぶれ、下間へ女とともに寝かし、平間は別間で寝ること となりました。 深夜――、雨が降る闇のなか、黒装束の男たちが八木邸に入っていきました。国事探偵方の御倉伊勢武を先頭 に、土方歳三、沖田総司、藤堂平助の4人です。まずこの刺客たちは平山五郎を仕留めます。次に芹沢の寝所に 入り、屏風を倒し、屏風ごと一斉に刀を突き立てました。芹沢とお梅の二人は悲鳴をあげ、芹沢は枕元の刀をつ かむも、さすがに抵抗らしきことも出来ずに即死しました。その煽りでお梅も斬られ、ほどなく亡くなりました。 当然平間もその犠牲者になる予定でしたが、運良く厠におり、無事でした。その後、抜き身を下げて「ドコへ行 った?」と叫んだが遅かった。既に芹沢、お梅、平山の暗殺作業はすでに終了していました。 翌日、芹沢たちの検死が新選組によって行われ、犯人は長州藩の仕業と断定されました。 享年38歳、現在墓所は壬生寺境内墓地に存在します。 |
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文:あさくら ゆう 氏 |
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| ■芹澤鴨年表▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ■芹澤鴨のエピソード(人物像)▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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◎京都で宿舎とした八木家次男の話 背が高くて、でっぷりとしており、色白で目は小さい方だった。年齢は34,5歳。よく酒を飲み、酔ってくるとだんだん 難しい顔になり、見境が無くなる。 酔わない時には、ざっくばらんな、いかにも豪傑らしい、いい気質の人物である。剣に優れている上に底知れぬ腕力があり、 暴れだすと取り静めるのに骨が折れた。 ◎新選組始末記−子母澤 寛 人より優れた力量の持ち主。ひとかどの人物ではあるが、短期でわがまま、扱いかねることが度々あった。 平素「尽忠報国の士 芹澤 鴨」と彫った鉄扇を持ち、気に食わないことがあると喉が張り裂けるほど怒号した。 ◎新選組顛末記−永倉 新八 猛烈な勤皇思想を抱き、つねに攘夷を叫んでいた。 大勢からは先生と呼ばれていた。 それほどの才幹で、国家有事の時にむざむざと横死したことは、彼自身のみならず、国家的損害であるとは、当時、心ある ものの一致するところであった。 |
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| ■当時の新選組編成図▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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●参考文献● 芹澤家の歴史(芹澤雄二) 常野集 鶯谷集(野口家所蔵) 文久元年浪士佐原一件(伊能権之丞) 佐原の歴史 第3集(佐原市教育委員会) 潜中始末(清河八郎) 水戸藩史料下巻 幕末水戸風雲録 新選組研究bP(31人会) 水戸見聞実記(歴史図書社) 北茨城史壇 新選組日記(木村幸比古、PHP編) 新撰組顛末記(永倉新八) 清河八郎(大川周明) 日野新選組展(日野市ふるさと博物館) 新選組始末記(子母沢寛) 協力 法眼寺、芹澤雄二、野口不二子、下村哲也ほか(敬称略) ◎記事作成:あさくら ゆう 氏 |
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